『ファイナル・デッドコースター』:2006、アメリカ&カナダ&ドイツ

ウェンディー・クリステンセンは、恋人のジェイソン・ワイズ、友人のキャリー・ドレイヤー、彼女の恋人ケヴィン・フィッシャーたちと共に、高校の卒業イベントで遊園地にやって来た。友人たちと来ている妹のジュリーと遭遇したウェンディーは、不愉快そうな表情を浮かべた。ウェンディーたちはジェイソンに誘われ、ジェットコースターへ向かう。だが、ウェンディーは不吉な予感を抱き、搭乗を怖がった。しかしジェイソンに促され、不安を抱きながらもゲートをくぐった。
ジェットコースターがスタートする直前、ウェンディーは脱線事故で自分を含む大勢が犠牲になる予知夢を見た。ウェンディーはパニック状態に陥り、降ろしてもらう。同級生のルイスが罵倒するので、ケヴィンが言い返して喧嘩になり、乗り場から追い出される。騒ぎに呆れたアシュリンと親友のアシュレイ、2人に付きまとっていたフランキーもジェットコースターを降りた。ジェイソンやキャリーは搭乗したまま、ジェットコースターは発進した。そして予知夢の通りに脱線事故が発生し、搭乗客は全員が死亡した。
それから2週間が経過し、ウェンディーはジェイソンを失った悲しみを抱えて過ごしていた。卒業パーティーの日が訪れるが、彼女は行く気にならなかった。そんな彼女に、ケヴィンは「ネットで調べた。今回と同じようなケースが他にもある」と言い、6年前の出来事を語る。「飛行機事故を回避した人々は、その後、座席の順番通りに死んでいった。誰かが妨害しない限り、僕らも死ぬ」とケヴィンは説明するが、ウェンディーは「最低な男」と彼を睨み付けて去った。
アシュリンとアシュレイは、日焼けサロンを訪れる。2人はショートした日焼けマシーンに閉じ込められて焼け死んだ。一方、遊園地で撮影した写真をチェックしたウェンディーは、あることに気付いた。アシュリンたちの葬儀の後、ウェンディーはケヴィンを呼び出し、「いつも誰かが付きまとっているみたい」と恐怖を感じていることを明かす。ウェンディーは彼に写真を見せ、ジェイソン、アシュリン、アシュレイの死に方が予知されていることを教える。
順番通りに行けば、アシュリンとアシュレイの後ろに乗っていたフランキーが次に死ぬことになる。フランキーの写真を見たウェンディーとケヴィンは、彼の死に方について想像を巡らせる。2人はドライブスルーで車に閉じ込められ、そこへ無人のトラックが暴走してきた。2人は間一髪で脱出するが、トラックの激突によって、前に停車していたフランキーが死んだ。その夜、ウェンディーとケヴィンは改めて写真を調べる。フランキーの後ろがルイス、次がイアンとエリンだが、その後ろの客は従業員の腕が邪魔で姿が見えない。
翌日、2人はフットボール部の合宿を行っているルイスの元を訪れ、死の予知について説明する。まるで信じずに2人を追い払おうとするルイスだが、予知された通りに死んだ。ウェンディーとケヴィンはホームセンターで働くイアンとエリンの元へ行き、写真に死が予知されていることを教える。だが、ルイスと同様に、2人も予知を信じなかった。ウェンディーはイアンの危機に気付き、「危ない」と叫ぶ。それによってイアンは死なずに済んだが、エリンが事故死した。
警察の取り調べを受けたウェンディーは死の予知について話すが、まるで信じてもらえなかった。帰宅したウェンディーは写真を再確認し、ジュリーがジェットコースターに乗っていたことに気付いた。ウェンディーは300年祭へ出掛けたジュリーに電話を掛けるが、留守電になっていた。ウェンディーはケヴィンに電話を掛け、ジュリーのことを話す。ジュリーは親友のペリーとアンバーの3人で遊園地へ来ていた。つまり、その内の誰かが次に死ぬことになる。ケヴィンはマッキンレー市創立300年祭の会場で警備のアルバイトに就いていた。「そっちに行くわ」と言うウェンディーに、ケヴィンは「ジュリーの次は僕たちだ」と自分たちの写真を見るよう指示する。
ウェンディーが自分の写真を見ると、マッキンレー高校のシャツを着ていた。ケヴィンの写真は顔にフラッシュが当たり、まぶしそうな顔をしていた。「まるで花火を顔に浴びてるみたいに?」とケヴィンは口にする。300年祭の会場では、花火の打ち上げ準備が進められていた。ウェンディーは車を走らせ、300年祭の会場に到着した。ウェンディーとケヴィンが警戒心を募らせる中、ジュリーは暴走した馬に引きずられる。ケヴィンが間一髪でジュリーを助けるが、その直後にペリーが命を落とした…。

監督はジェームズ・ウォン、脚本はグレン・モーガン&ジェームズ・ウォン、製作はクレイグ・ペリー&ウォーレン・ザイド&グレン・モーガン&ジェームズ・ウォン、共同製作はアート・シェーファー、製作協力はシーラ・ハナハン・テイラー、製作総指揮はトビー・エメリッヒ&リチャード・ブレナー&マット・ムーア、撮影はロバート・マクラクラン、編集はクリス・ウィリンガム、美術はマーク・フリーボーン、衣装はグレゴリー・B・マー、視覚効果監修はアリエル・ヴェラスコ・ショウ、音楽はシャーリー・ウォーカー。
出演はメアリー・エリザベス・ウィンステッド、ライアン・メリマン、クリス・レムシュ、テキサス・バトル、アレックズ・ジョンソン、ジェシー・モス、サム・イーストン、ジーナ・ホールデン、クリスタル・ロウ、シャーラン・シモンズ、アマンダ・クルー、マギー・マー、エクスタシア・サンダース、ジョディー・ラシコット、パトリック・ギャラガー、ディラン・バス、アルベルト・ギーシ他。


『ファイナル・デスティネーション』『デッドコースター』に続く“ファイナル・デスティネーション”シリーズの第3作。
前作が日本で劇場公開される時に、続編と思われたくなかったのか、『ファイナル・デスティネーション2』じゃなくて『デッドコースター』という邦題にしちゃったもんだから、3作目が作られた時には、もう取り返しが付かなくなってしまった。
で、これが3作目なのに、まるで『デッドコースター』というシリーズの最終作みたいな邦題になってしまっている。

監督にはシリーズ1作目を撮ったジェームズ・ワンが復帰。脚本の方も、1作目に携わったグレン・モーガンとジェームズ・ワンが担当している。
出演者は総入れ替えとなっており、前2作で葬儀屋のブラッドワースを演じていたトニー・トッドも登場しない。今回は悪魔の声を担当しているだけだ。ブラッドワースという人物は登場するが、死の予告について主人公に情報を教える役割ではない。
っていうか、どこにブラッドワースという人物が出ていたのかさえ良く分からない。
ウェンディーをメアリー・エリザベス・ウィンステッド、ケヴィンをライアン・メリマン、イアンをクリス・レムシュ、ルイスをテキサス・バトル、エリンをアレックズ・ジョンソン、ジェイソンをジェシー・モス、フランキーをサム・イーストン、キャリーをジーナ・ホールデン、アシュリンをクリスタル・ロウ、アシュレイをシャーラン・シモンズ、ジュリーをアマンダ・クルー、ペリーをマギー・マー、アンバーをエクスタシア・サンダースが演じている。

シリーズ化された映画の中で、2作目が1作目と同じぐらい面白かったり、あるいは1作目を越えたりするケースは、稀にある。
例えば、『ゴッドファーザーPART II』や『エイリアン2』が、それに該当する。
だが、3作目が2作目を越えるケースは、ほぼ皆無と言っていいだろう。
この映画も、その「3作目の法則」に合致する。
っていうか、このシリーズに関しては、そもそも1作目の出来栄えからしてアレなので、まあ3作目の方が質が云々とか、そういうレベルではないんだが。

「主人公が事故の予知夢を見る」→「搭乗予定だった乗り物を回避する」→「その乗り物が大事故に見舞われて多くの犠牲者が出る」→「その乗り物に乗る予定だった人が死亡する」→「搭乗予定だった人々は死ぬ運命にあり、それは変えられないことを主人公が知る」→「主人公は何とか阻止しようとするが、予知された順番に従って人が死んでいく」→「最終的には主人公も死ぬ」というのが、このシリーズのパターンだ。
1作目、2作目、3作目と、大まかに言えば、やっていることは同じである。
同じパターンを繰り返しているのだから、マンネリズムに陥るのは当然のことだ。そして、同じパターンを繰り返しているのだから、観客は次の展開が何となく読める。つまり、予定調和ということになる。
マンネリズムや予定調和が歓迎されるような類の映画、それが味わいになっているような類の映画も、全く無いわけではない(それも限度があるが、そのことは置いておくとして)。
しかし少なくとも、ホラー映画においてマンネリズムや予定調和がプラスに作用することは、限りなくゼロに近い。

楽しい雰囲気から一転してパニックへと突入するのではなく、まだ何も起きていない内から、「これから怖いことが起きますよ」という雰囲気をアピールしているのも、1作目から共通している(まあ監督が1作目と同じなんだから、当然っちゃあ当然だが)。
まあ、その演出に関しては、1作目の時はマイナスだと感じたが、もはや3作目になると、どっちでもいいモノになっている。
どうせシリーズを1作目から見ていれば、まだ何も起きていない段階でも、次に何が起きるのかは分かっている。
だから、怖い雰囲気を煽ろうと煽るまいと、どっちでも大差が無いってことになるのだ。

パターンが同じだと分かっているので、最初に描かれるジェットコースターのシーンが現実ではなくウェンディーの予知夢であることも、まだ「実は予知夢でした」と明かされる前から理解できる。
そこまでのシーンが、死の運命に従って殺されていくメンバーを紹介するための時間帯だという構成上の都合も分かっている。
で、そういう時間帯のはずなのに、説明が下手だから、メンバー全員の顔触れは把握できない。
だから最初にアシュリンとアシュレイが死んでも、残り何名なのかが分からない。
「それは説明が下手なんじゃなくて、お前の頭が悪いだけだ」と言われたら、それは否定しない(否定しないのかよ)。

1作目と2作目の主人公は、死のリストを書き換える方法を探り、知恵を使って運命を変えようとしていた。
しかし今回のヒロインは、死ぬ順番や死に方について想像を巡らせるだけで、「どうすれば死のリストを書き換え、予知を阻止することが出来るか」という方向での作業が乏しい。その場その場で事故を回避しようという動きは見せているが、そういう「咄嗟の行動」ばかりで、頭を使って対策を講じるという努力が薄い。
だから、ほぼ役立たずな存在になっている。
予知されたメンバーは、全くウェンディーたちの説明に耳を貸さないので、運命に抗うことなく、あっさりと死んでいく。
その辺りは、ある意味では「前作との違い」ということになるのだろうが、それは質の向上に繋がっているわけではなく、ただ劣化しているだけだ。

このシリーズは1作目からそうなんだけど、ストーリーはあって無いようなもので、極端に言ってしまえば、どうでもいい。
ザックリと言うならば「色んな死に方コレクション」であり、その死に方を順番に並べているだけだ。
それだけでは映画としての体裁が整わないから、申し訳程度に物語らしき要素をくっ付けている、と解釈すればいい。
この3作目なんて、DVDでは「死に様マルチ版」が用意され、そこでは選択によって死に方や死ぬ順番が変わるんだから、いかに物語がオマケ扱いかってことだよな。

この映画はストーリーとかキャラクターとかはどうでも良くて、ひたすら「死のピタゴラスイッチ」を観賞するだけの作品だ。
例えば、「日焼けマシーンの部屋に持ち込んだ飲み物のコップに水滴が付く」→「水滴が棚から機械に垂れ落ちる」→「機械が故障してマシーンの温度が上昇する」→「エアダクトから吹き込んだ風でコートハンガーが倒れる」→「コートハンガーがぶつかって観葉植物が倒れる」→「観葉植物がぶつかって棚がマシーンの上に落ちる」→「マシーンを開けようとしたら棚が滑り落ちて挟まり、蓋が開かなくなる」といった具合に、色んな事が連鎖して、予知された面々は死に至る。
そういう死に方コレクションの作品だ。

(観賞日:2013年5月19日)

 

*ポンコツ映画愛護協会